丈山苑について

Jozanen

江戸時代初期の文人・石川丈山が京都一乗寺に終の栖として建てた詩仙堂。丈山苑は、そのイメージを生誕の地・安城市和泉町に再現し「丈山の世界」を伝えるための空間として、平成8年5月に開苑しました。

丈山苑の核となる詩泉閣には、林羅山はやしらざんと丈山が選定し、狩野探幽かのうたんゆうの「画」、丈山の「賛」と伝えられる詩仙堂ゆかりの三十六詩仙図(板絵、複製)を架けた「詩仙の間」や、丈山が初めて取り入れたとされる隷書体の車幅などが掲げられ、丈山の感性をしのぶことができます。

庭園は、丈山が作庭した詩仙堂、東本願寺渉成園枳殻邸しょうせいえんきこくてい、田辺の酬恩庵しゅうおんあんの三庭園をイメージし、唐様庭園・回遊式池泉庭園・蓬莱庭園を組み合わせた本格的な庭園であり、ところどころに丈山の漢詩碑を配しています。四季折々の風を感じながら苑内にたたずみ、ゆったりと一服の茶を味わうとき、悠々自適に生きた丈山からの現代へのメッセージを感じることができます。

石川丈山について

Jozan Ishikawa

石川丈山は、天正11年(1583年)三河国碧海郡泉郷(現:安城市和泉町)で、松平家(のちの徳川家)に代々仕えていた武士の家に生まれた。16歳の時に徳川家康の近習となり、数々の手柄を立てたが、33歳の大坂夏の陣において禁止されていた先頭せんとう(一番乗り)をして軍令違反に問われ蟄居ちっきょした。

これを契機に学問を志すようになり、林羅山を介して藤原惺窩せいかと出会い、儒学の教えを受けるなかで自分の進むべき道を見つけた。しかし、仕官を望む母に孝養をつくすため広島藩の浅野家に儒学者として再出仕した。浅野家に仕えてから13年目に母を亡くし、翌年広島を去り、55歳の時には京都の相国寺しょうこくじの近くに住んだ。その後、寛永18年(1641)に59歳で一乗寺に詩仙堂を開き、風雅を楽しみ詩作に遊ぶ悠々自適の文人としての生涯をここで送り、望郷の念を抱きながら90歳の天寿を全うした。

丈山は江戸時代初期を代表する漢詩人であり、隷書を我が国で初めて取り入れた書家としても知られるほか作庭家でもあり、また「煎茶の日本の開祖」とも言われ、現代においても「文人」とし高い評価を受けている。

丈山苑全景

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